20年近く抱き続けた先入観と向き合う日――ジェノサイド・メモリアルを初めて訪れた。この狭い国土に200か所以上というから、文字通り「そこらじゅう」に追悼施設がある。そのほとんどが、実際に虐殺が行われた現場に、時として現場を保存する形で、建てられている。今回は、南部ギコンゴロ県ムランビの丘というところに行ってきた。
※以下、便宜上ツチ、フツという言葉を使うが、現在はこうした分類を行うこと自体が禁じられており、ましてルワンダ国内で外国人が軽はずみに口にすることはマナー上あり得ない。
正面の建物は展示施設で、2010年末にオープンしたもの。
虐殺に至る歴史的背景がパネル展示されている。
どうしても、当時の主な被害者たるツチの史観とういことになるが。)
左奥に小さく見える建物は当時、建設中の学校だった。
現在ここに、約400体のご遺体が“公開”されている。
キガリで大虐殺が始まると、その動きは瞬く間に地方部にも広がったと言われている。展示パネルによれば、当時危険を感じ避難を始めた人々に対し、地元当局はこの丘が「唯一保護が可能な場所」として喧伝したのだという。そのため、遠方からの避難者も含め5万人が集まった。そしてある晩、十分に集まったと判断したのであろう。施設は武装勢力に包囲され、最初は銃の掃射と手榴弾で、小休止後、ナタでひとりひとり致命傷を負わされていった。後に、この丘は最初からそうするつもりで選ばれたのであり、周囲の丘より一段低い位置にあるムランビの丘は『最適の』場所であったのだと言われるようになった。
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虐殺に至る歴史的背景について、これまでも何度か目にする機会があったが、今回あらためて学び直す機会となった。展示パネルの説明は、おそらくルワンダ現政権下の「公式史観」であると推測されるため受け売りにすることは出来ないが、言葉の端々に『和解』を意識したのだろうと思われる意図が感じられ、これはこれでひとつの貴重な史料だなと思わされる。以下いくつか、目に付いた事項をピックアップしてみたい。
【ツチ、フツ、フツ過激派】
この虐殺は、シンプルに「フツがツチを虐殺した」と説明されることが一般的かと思うが、展示パネルやガイドのお兄さんの話では「フツ」と「フツ過激派(extremist Hutu)」を、意識的かつ慎重に、使い分けていた。2つの理由が想像できた。
1つは、被害者の数という意味ではツチにおよばないものの、かなりの数の「穏健派フツ」と呼ばれる人々も犠牲になったという事実を踏まえているのだろう。従来よく聞いた説明では、多数派(全国民の約8割)のフツが、メディアリテラシーもない権力盲従の人々だったため、ラジオ放送等のプロパガンダに乗せられ隣人を殺戮する殺人鬼と化した、というものだった。これに対し展示パネルでは、過激派フツの核となる権力者たちがいたこと、彼らが中心になって組織した民兵組織(いわゆるインタハムウェ等)がかなりの数に上っていたこと(Wikiによれば3万人)、市井のフツの人々は殺戮に加担しなければ裏切り者として殺すと脅されていたこと(たとえば、反ツチ・プロパガンダの典型とされる『フツの十戒』)を指摘し、ルワンダ人の中の責任はほぼ過激派フツに集約される構図を描く。
実際、政治的にはツチを攻撃しつつも「皆殺し」や「虐殺」には反対していたフツの閣僚級の政治家もいたが、虐殺開始後すぐに軍や大統領警備隊に殺されてしまった。また、展示パネルには、良心からツチをかくまったフツ女性が、フツ過激派にその事実を知られ命からがら難民キャンプへ逃げたとの話が載っていた。フツの中にも攻撃対象はいたのだ。
2つ目は、そうした事実も踏まえながら、多数派のフツを十把一絡げに断罪してしまうと国が持たない、という現実的な判断も働いていると思われる。そうは言っても、親兄弟家族を殺されたツチの人々にとって、フツの人々に対する抜きがたい不信感と制裁感情は当然あるだろうと思われる。「悪かったのは過激派フツであり、一般のフツは悪くない、ひょっとしたら被害者だったかも」というストーリーが、加害者と被害者が同じ村で暮らしていくためには必要だったのだろう。
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ところで、国民和解のために、内の責任所在を限定するのと同時に、外へ批判の矛先を向けさせるのは古今東西の常套手段といっていいと思うが、1994年の虐殺についての典型的な諸外国批判には、個人的に妥当だと思うものと、ちょっと言い過ぎではないかと感じられるものが混在しているように思う。
【ベルギー批判】
まずは批判されるのは、争いのそもそもの火種をまいた植民地支配者たるベルギーだ。フツとツチ。“ハム仮説”がエセ科学であることは今では常識だが、20世紀初頭は広く信じられていた。だらか、フツとツチを曖昧な定義と薄弱な根拠で分けたこと自体は時代背景から批判できないのかもしれないが、現在ではフツもツチも元々同じ民族だったのではないかと考えられている。問題は少数派のツチを露骨に優遇し、フツには教育の機会さえ与えないという、支配のみを目的とした植民地経営を行ったことだ。さらにタチの悪いことに、独立の気配が濃厚になった1950年代末頃になると、あっさりツチからフツに乗り換え、フツの味方をするようになる。同時期に、ツチとフツの民族感情に起因する最初の暴力事件が起きている。植民地経営のためにつくり出され、あおられ続けた対立感情、不信感、憎悪が虐殺の素地を成していたことは疑う余地がないだろう。より直接的には、ベルギー植民政府が1930年代に始めたIDカード制度が、1994年の虐殺において殺す「根拠」となった。
【国連、米国批判】
後に、ルワンダ虐殺と旧ユーゴ紛争はほぼ同期に起き、どちらも凄惨な民族浄化が行われていたにもかかわらず、国際社会の対応が劇的なまでに違ったとして批判の対象となった。国連は1994年当時、国連ルワンダ支援団という平和維持部隊を駐留させており、虐殺が始まる3カ月前には民兵が武器を集めいていることを知っていた。現地の司令官はニューヨークへ、この武器庫を襲撃する提案までしていたが、PKO担当国連事務次長はこれを却下した。後の国連事務総長コフィ・アナンである。一方、安全保障理事会でもルワンダ問題は取り上げられたが、積極関与させまいと精力的に動いたのが米国だった。当時、米国指導者たちがルワンダで起きている事案を頑なに「ジェノサイド」と呼ばなかったことは、今や悪名高き逸話となっている。ジェノサイド条約批准国として行動する義務を回避するためだったと言われている。彼らは、事態が収束に向かいだした6月以降、堂々とジェノサイドと口にするようになった。
確かに、恥を知れと言いたくなるような経緯だと思う。虐殺を止められないまでも、被害をもっとずっと小さく抑える機会が複数あったのは確かだ。だが一方で、一国の国内で起きている殺し合いについて、国連は非難されているほどの責めを負うべき存在なのだろうか、とも思う。個人的にこの件は、旧ユーゴ紛争との対比があるから問題なのであって、武力紛争の真っただ中に割って入るのは本来の国連の役割から言っても、また実際のキャパから言っても、過大要求であるように感じる。
【フランス批判】
ちょっと意外だったのは、ガイドのお兄さんがとりわけ口先を尖らせて毒づいたのは、ベルギーでも、アメリカでも、国連でもなく、フランスに対してだったこと。曰く「あいつらフツをかくまったんだ、死体の上でバレーボールをしたんだ、だいたいフツの民兵を訓練したのだってフランス軍だったんだ」となむ。ガイド君は若く見えたので、最初は虐殺を直接経験した世代なのかどうかも分からなかったのだが、実際は38歳で、1万人以上が犠牲になったニャマタの虐殺の生存者だった。その彼の怒りが、フランスに向いていた。
展示パネルや、後からネットで調べた話を総合すると、独立後のルワンダ政権(フツ)は、旧宗主国のベルギーを牽制する意味もあり、フランスに近づいた。フランス側にとっても、北アフリカの既得権益を手ひどく失った直後の時期にあたり、ルワンダを支援する意味は十分にあったのだろう。そうして政権の座にあるフツ勢力とフランスは、援助する側・される側によく見られるズブズブの関係となり、軍だけでなくフツ民兵にも武器を与え、訓練していたと言われている(当然、フランスは公式に認めていないので、確かな史実ではなまだないが)。フランスは、フツ過激派の中心人物の1人と目されていたハビャリマナ大統領夫人を真っ先に亡命させたし、6月末に「トルコ石作戦」として軍を送った際にも虐殺に関わったフツを隣国に逃がし、さらなるツチの虐殺を招くなどしたため、全体に評判がよくない。
ガイド君の言っていた「バレーボール」とは、虐殺者たちがメディアに向かって「ここで虐殺など起きていません」とアピールし、その証拠にフランス軍も楽しそうに遊んでいるとして、バレーボールをしているフランス人兵士たちが映されたのだそうだ。つまり、虐殺の隠蔽に加担したということだ。おそらく、死体はすでに埋められていたであろうから、ガイド君の言うように死体の「上で」(on the bodies)プレーしたわけではなかろうと思うが、おびただしい人の血がしみ込んだ校庭での出来事であることに違いはなく、多くの人にとって許しがたい行為だったことが容易に想像できる。現場には今も、フランス軍はここでバレーボールをしました、というプレートが残されている。
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メモリアルに行ってきました、として、残された血痕や衣服や死体の視覚的な画や、あたりに立ちこめる吐き気を誘うような臭いについて描写をするのもひとつだとは思う(なにも死体まで“展示”しなくていいのに、と個人的には思うが)。そこに生じる生々しい恐怖感こそが、新たな争いを起こそうとする人間を躊躇させるのだと思うし。だが、実際は、どんなにそれが凄惨で狂気で残酷なことであると分かっていても、虐殺は人類史上繰り返し起きてきたし、もう起きないという実感は残念がら持てたことがない。
「どうしてこんなことが起きたのだろう?」ゴリラに会っている時も、美しい丘を眺めている時も、キガリの街並みをドライブしている時も、ずっと疑問が頭の隅から離れない。理性や恐怖をもって歯止めにならないのであれば、せめて背後にある力学だけでも解明できないのか。誰がこの状況をつくり出し、利用したのか。踊らされて殺人者となった者すべてが異常者だったとは限らない。むしろ、普通の市井の人がナタを持って襲い掛かってくるから恐怖なのだ。その意味では、被害者のみに思いを致し同情や哀悼の意を持つだけでは不十分で、加害者に何が起きたのか、どうして加害者になってしまったのかということも、いつか解き明かされなければならないと思う。ルワンダで感じた恐怖感は、非人間的な殺戮への戦慄だけでなく、市井の人がそんな非人間的な殺戮者に成り得たということはつまり、私自身がそうならないと言い切ることは実はできないのだということにもあった。いつか踊らされそうになった時、それを自覚し拒否できる人間でありたいと切に願う。