2013年5月31日金曜日

ムランビ

20年近く抱き続けた先入観と向き合う日――ジェノサイド・メモリアルを初めて訪れた。この狭い国土に200か所以上というから、文字通り「そこらじゅう」に追悼施設がある。そのほとんどが、実際に虐殺が行われた現場に、時として現場を保存する形で、建てられている。今回は、南部ギコンゴロ県ムランビの丘というところに行ってきた。

※以下、便宜上ツチ、フツという言葉を使うが、現在はこうした分類を行うこと自体が禁じられており、ましてルワンダ国内で外国人が軽はずみに口にすることはマナー上あり得ない。



正面の建物は展示施設で、2010年末にオープンしたもの。
虐殺に至る歴史的背景がパネル展示されている。

どうしても、当時の主な被害者たるツチの史観とういことになるが。)



左奥に小さく見える建物は当時、建設中の学校だった。
現在ここに、約400体のご遺体が“公開”されている。


キガリで大虐殺が始まると、その動きは瞬く間に地方部にも広がったと言われている。展示パネルによれば、当時危険を感じ避難を始めた人々に対し、地元当局はこの丘が「唯一保護が可能な場所」として喧伝したのだという。そのため、遠方からの避難者も含め5万人が集まった。そしてある晩、十分に集まったと判断したのであろう。施設は武装勢力に包囲され、最初は銃の掃射と手榴弾で、小休止後、ナタでひとりひとり致命傷を負わされていった。後に、この丘は最初からそうするつもりで選ばれたのであり、周囲の丘より一段低い位置にあるムランビの丘は『最適の』場所であったのだと言われるようになった。


◆ ◆ ◆



虐殺に至る歴史的背景について、これまでも何度か目にする機会があったが、今回あらためて学び直す機会となった。展示パネルの説明は、おそらくルワンダ現政権下の「公式史観」であると推測されるため受け売りにすることは出来ないが、言葉の端々に『和解』を意識したのだろうと思われる意図が感じられ、これはこれでひとつの貴重な史料だなと思わされる。以下いくつか、目に付いた事項をピックアップしてみたい。

【ツチ、フツ、フツ過激派】
この虐殺は、シンプルに「フツがツチを虐殺した」と説明されることが一般的かと思うが、展示パネルやガイドのお兄さんの話では「フツ」と「フツ過激派(extremist Hutu)」を、意識的かつ慎重に、使い分けていた。2つの理由が想像できた。

1つは、被害者の数という意味ではツチにおよばないものの、かなりの数の「穏健派フツ」と呼ばれる人々も犠牲になったという事実を踏まえているのだろう。従来よく聞いた説明では、多数派(全国民の約8割)のフツが、メディアリテラシーもない権力盲従の人々だったため、ラジオ放送等のプロパガンダに乗せられ隣人を殺戮する殺人鬼と化した、というものだった。これに対し展示パネルでは、過激派フツの核となる権力者たちがいたこと、彼らが中心になって組織した民兵組織(いわゆるインタハムウェ等)がかなりの数に上っていたこと(Wikiによれば3万人)、市井のフツの人々は殺戮に加担しなければ裏切り者として殺すと脅されていたこと(たとえば、反ツチ・プロパガンダの典型とされる『フツの十戒』)を指摘し、ルワンダ人の中の責任はほぼ過激派フツに集約される構図を描く。

実際、政治的にはツチを攻撃しつつも「皆殺し」や「虐殺」には反対していたフツの閣僚級の政治家もいたが、虐殺開始後すぐに軍や大統領警備隊に殺されてしまった。また、展示パネルには、良心からツチをかくまったフツ女性が、フツ過激派にその事実を知られ命からがら難民キャンプへ逃げたとの話が載っていた。フツの中にも攻撃対象はいたのだ。

2つ目は、そうした事実も踏まえながら、多数派のフツを十把一絡げに断罪してしまうと国が持たない、という現実的な判断も働いていると思われる。そうは言っても、親兄弟家族を殺されたツチの人々にとって、フツの人々に対する抜きがたい不信感と制裁感情は当然あるだろうと思われる。「悪かったのは過激派フツであり、一般のフツは悪くない、ひょっとしたら被害者だったかも」というストーリーが、加害者と被害者が同じ村で暮らしていくためには必要だったのだろう。



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ところで、国民和解のために、内の責任所在を限定するのと同時に、外へ批判の矛先を向けさせるのは古今東西の常套手段といっていいと思うが、1994年の虐殺についての典型的な諸外国批判には、個人的に妥当だと思うものと、ちょっと言い過ぎではないかと感じられるものが混在しているように思う。


【ベルギー批判】
まずは批判されるのは、争いのそもそもの火種をまいた植民地支配者たるベルギーだ。フツとツチ。“ハム仮説”がエセ科学であることは今では常識だが、20世紀初頭は広く信じられていた。だらか、フツとツチを曖昧な定義と薄弱な根拠で分けたこと自体は時代背景から批判できないのかもしれないが、現在ではフツもツチも元々同じ民族だったのではないかと考えられている。問題は少数派のツチを露骨に優遇し、フツには教育の機会さえ与えないという、支配のみを目的とした植民地経営を行ったことだ。さらにタチの悪いことに、独立の気配が濃厚になった1950年代末頃になると、あっさりツチからフツに乗り換え、フツの味方をするようになる。同時期に、ツチとフツの民族感情に起因する最初の暴力事件が起きている。植民地経営のためにつくり出され、あおられ続けた対立感情、不信感、憎悪が虐殺の素地を成していたことは疑う余地がないだろう。より直接的には、ベルギー植民政府が1930年代に始めたIDカード制度が、1994年の虐殺において殺す「根拠」となった。


【国連、米国批判】
後に、ルワンダ虐殺と旧ユーゴ紛争はほぼ同期に起き、どちらも凄惨な民族浄化が行われていたにもかかわらず、国際社会の対応が劇的なまでに違ったとして批判の対象となった。国連は1994年当時、国連ルワンダ支援団という平和維持部隊を駐留させており、虐殺が始まる3カ月前には民兵が武器を集めいていることを知っていた。現地の司令官はニューヨークへ、この武器庫を襲撃する提案までしていたが、PKO担当国連事務次長はこれを却下した。後の国連事務総長コフィ・アナンである。一方、安全保障理事会でもルワンダ問題は取り上げられたが、積極関与させまいと精力的に動いたのが米国だった。当時、米国指導者たちがルワンダで起きている事案を頑なに「ジェノサイド」と呼ばなかったことは、今や悪名高き逸話となっている。ジェノサイド条約批准国として行動する義務を回避するためだったと言われている。彼らは、事態が収束に向かいだした6月以降、堂々とジェノサイドと口にするようになった。

確かに、恥を知れと言いたくなるような経緯だと思う。虐殺を止められないまでも、被害をもっとずっと小さく抑える機会が複数あったのは確かだ。だが一方で、一国の国内で起きている殺し合いについて、国連は非難されているほどの責めを負うべき存在なのだろうか、とも思う。個人的にこの件は、旧ユーゴ紛争との対比があるから問題なのであって、武力紛争の真っただ中に割って入るのは本来の国連の役割から言っても、また実際のキャパから言っても、過大要求であるように感じる。


【フランス批判】
ちょっと意外だったのは、ガイドのお兄さんがとりわけ口先を尖らせて毒づいたのは、ベルギーでも、アメリカでも、国連でもなく、フランスに対してだったこと。曰く「あいつらフツをかくまったんだ、死体の上でバレーボールをしたんだ、だいたいフツの民兵を訓練したのだってフランス軍だったんだ」となむ。ガイド君は若く見えたので、最初は虐殺を直接経験した世代なのかどうかも分からなかったのだが、実際は38歳で、1万人以上が犠牲になったニャマタの虐殺の生存者だった。その彼の怒りが、フランスに向いていた。

展示パネルや、後からネットで調べた話を総合すると、独立後のルワンダ政権(フツ)は、旧宗主国のベルギーを牽制する意味もあり、フランスに近づいた。フランス側にとっても、北アフリカの既得権益を手ひどく失った直後の時期にあたり、ルワンダを支援する意味は十分にあったのだろう。そうして政権の座にあるフツ勢力とフランスは、援助する側・される側によく見られるズブズブの関係となり、軍だけでなくフツ民兵にも武器を与え、訓練していたと言われている(当然、フランスは公式に認めていないので、確かな史実ではなまだないが)。フランスは、フツ過激派の中心人物の1人と目されていたハビャリマナ大統領夫人を真っ先に亡命させたし、6月末に「トルコ石作戦」として軍を送った際にも虐殺に関わったフツを隣国に逃がし、さらなるツチの虐殺を招くなどしたため、全体に評判がよくない。

ガイド君の言っていた「バレーボール」とは、虐殺者たちがメディアに向かって「ここで虐殺など起きていません」とアピールし、その証拠にフランス軍も楽しそうに遊んでいるとして、バレーボールをしているフランス人兵士たちが映されたのだそうだ。つまり、虐殺の隠蔽に加担したということだ。おそらく、死体はすでに埋められていたであろうから、ガイド君の言うように死体の「上で」(on the bodies)プレーしたわけではなかろうと思うが、おびただしい人の血がしみ込んだ校庭での出来事であることに違いはなく、多くの人にとって許しがたい行為だったことが容易に想像できる。現場には今も、フランス軍はここでバレーボールをしました、というプレートが残されている。

◆ ◆ ◆

メモリアルに行ってきました、として、残された血痕や衣服や死体の視覚的な画や、あたりに立ちこめる吐き気を誘うような臭いについて描写をするのもひとつだとは思う(なにも死体まで“展示”しなくていいのに、と個人的には思うが)。そこに生じる生々しい恐怖感こそが、新たな争いを起こそうとする人間を躊躇させるのだと思うし。だが、実際は、どんなにそれが凄惨で狂気で残酷なことであると分かっていても、虐殺は人類史上繰り返し起きてきたし、もう起きないという実感は残念がら持てたことがない。
「どうしてこんなことが起きたのだろう?」ゴリラに会っている時も、美しい丘を眺めている時も、キガリの街並みをドライブしている時も、ずっと疑問が頭の隅から離れない。理性や恐怖をもって歯止めにならないのであれば、せめて背後にある力学だけでも解明できないのか。誰がこの状況をつくり出し、利用したのか。踊らされて殺人者となった者すべてが異常者だったとは限らない。むしろ、普通の市井の人がナタを持って襲い掛かってくるから恐怖なのだ。その意味では、被害者のみに思いを致し同情や哀悼の意を持つだけでは不十分で、加害者に何が起きたのか、どうして加害者になってしまったのかということも、いつか解き明かされなければならないと思う。ルワンダで感じた恐怖感は、非人間的な殺戮への戦慄だけでなく、市井の人がそんな非人間的な殺戮者に成り得たということはつまり、私自身がそうならないと言い切ることは実はできないのだということにもあった。いつか踊らされそうになった時、それを自覚し拒否できる人間でありたいと切に願う。

ルワンダ

最初にゴリラのことを書いたのは、時系列順だからというのもあるが、ささやかな自戒の意味もこめたつもりだ。アフリカを紛争、難民、飢餓というキーワードからしか見ないステレオタイプは断固拒否してきたはずなのに、『ルワンダ』と聞いたとき、1994年の虐殺以外に――以上に――思い浮かぶものがなかった。昨年出張で初めてキガリを訪れた際も、今回も、そのことを意識しない瞬間というのはほとんどなかったと認めざるを得ない。




こんな緑豊かな丘を見て、





人口密度が高いな、とか思ってしまうのだ。
丘の上の方まで農耕地になっているから)





ルワンダは四国と同じくらいの面積に、
四国の3倍の人口が暮らす、アフリカいち人口密度の高い国だ。




キガリの住宅地。






ルワンダのインフラは手入れが行き届いている。

アフリカとは思えない道路。



穴(ポットホール)がない、白線が見える、
路面が滑らか、路肩が崩れていない。

全部、私にとっては非日常だ。




街灯がついていると、
こんなに明るいんだったっけ。


そして、よく「整備」されているね、と言うかわりに
よく「統制」されているね、とか言いそうになる。

警官の汚職がないことでも知られている。





2013年5月30日木曜日

ゴリ









ども、シルバーバックです。




マウンテンゴリラって意外と希少種なのだ。
『必ず見れる』と評判のルワンダ側からアプローチ。


予想以上にしっかりトレッキングだった。
急登→湿地→急登。写真奥の尾根もこのあと登ることに。
歩き始めて3時間、急斜面のヤブ漕ぎにも飽きてきた頃――
突然。
ママゴリラが目の前に降りてきた。
7メートル以内に近づいてはいけないと注意されていたのに、いきなり1メートルもない距離に寄って来られたので軽くパニック。大声で聞いていいのかも分からず、とりあえず後ずさりした私。びくびくオドオドした最初の遭遇だった。


行く手をふさがれたので、しばしフォトタイムに。
距離感、伝わるかな。

赤ちゃんを抱えていたからビビったのよね。
どんな動物も、赤ん坊と一緒だと攻撃的になるものだから。
よく見たら、すぐそばで
別の2頭がムシャムシャしてた。

左のおっきいのが、群れのボス、
いわゆるシルバーバックです、となむ。



リアルな指に、つぶらな瞳。
カメラはシルバーバック祭りに突入(笑
ゴリラキッズは竹林を飛び跳ねて
遊んでいた。シャッタースピードが追い付かない。



考え中。

ゴリラってゆったら胸をたたく姿が思い浮かぶと思う。
あれ、本当にするんだって初めて知った。
森のあちこちからトントントントンって音が聞こえてくる。
足がかゆいの。

股もかゆいの。

やがて仲間を引き連れ山に戻っていく、
貫禄のシルバーバック。


期待をはるかに上回る満足感だったのは、やっぱりゴリラがどこか人間に親近感を抱かせるからなのか。あるいは、ちょっとしんどめだったが、久しぶりの山歩きが心地よかったからってのもあったのかな。

2013年5月18日土曜日

ネテマテ

期間限定東京一人暮らしを満喫しようと、住まいと家具を探し始めていた矢先、1ポチ目から繰り上げ合格の知らせがあった。

7月末から2年間、ワシントンDCに留学する。

東京で職を得るために1件応募書類を送った以外はふて寝の日々だった。待ってたというより諦めてたという方が正しいが、結果的にカホウは寝てる時に届いた。
行き先はジョージタウンのビジネススクール。伝統的に外交学部など政治学系が強いことで有名な大学だが、ビジネススクールはまだ新しい。その分、特色をはっきり打ち出しており、大学の強味と知名度を反映したようなPublic、Globalといったキーワードを掲げていたり、学生の1割程度が政府系から来ていたりするという、一風変わったビジネススクールだ。が、私個人の関心には合致していると判断している。DCというロケーションも、国際開発の志向を残したまま就活するのであれば、間違いなくプラスだ。

2013年5月4日土曜日

低頭傾首

ネタかと思うような史上最低の一日。
普段は喜怒哀楽の喜と楽しか書かないポリシーだが、破って書く。

※ 続きはいつもに輪をかけ下らない。

◆ ◆ ◆

【衝撃その1】
来てからずっと関わってきたデカい仕事が、今、目の前で倒れつつある。
信頼関係ぶち壊しな事態が、また。
【衝撃その2】
4ポチ目も不合格だった。1年4か月にわたる受験生活は収穫ないまま幕を閉じる。正直どっと疲労感があり、いったん(一瞬)日本に戻って働こうかとも考えている。
【衝撃その3】
ナイジェリア人元彼の“わたしたちケッコンします”サイトを偶然発見してしまった。(こんなもんわざわざネット上に残すなよ、という突っ込みは当然ありつつ)そろそろそんな頃かなとは思っていた。が、ご丁寧に書き添えられた馴れ初めを見たら、そろそろどころか出会いから結婚までが、私が付き合っていた(…と思っていた)時期とほぼ丸かぶりだった。FBIみたいな仕事だから結婚は無理、と言って振った直後にプロポーズ、となむ。残酷だよなあ。
◆ ◆ ◆

徒労。何年か分の過去が泡になって消えた一日。
週末はさすがにうなだれて過ごす。

2013年5月3日金曜日

『Iron Lady』

いつもの衛星チャンネルで今年に入ってから繰り返し放送されていたので、亡くなった時はムシの報せだったかと驚いた。現役時代がまだ同時代と呼びうる範囲なので、ダイジェスト的な見せ方の方が受けるし、そうせざるを得ない部分もあっただろう。赤裸々な政治闘争を描くには存命中の関係者が多過ぎるに違いない。でも、もし、『Lincoln』のようなストーリー展開が可能だったら、もっと強烈な鉄女っぷりが描けたんだろうなあ。

2013年5月2日木曜日

鬱憤

スペインの失業率が過去最悪を更新し27.2%となった、てなニュースが2,3日前にあった。そんな時にサッカーまでこれじゃ、ストレス溜まりそうだと心配になる。

おいおい

シャワー室のタンクから水漏れしとるな。これは明日起きたら水浸しか?

休日

日本の連休の谷間の日、ウガンダはメーデーでお休みだった。
ビールも注いで、CL観戦スタンバイOK。

欧州サッカーを観るようになったのも、大きな試合は必ず自宅観戦するようになったのも、考えてみればこの3年で身に付いた習慣だ。