2010年2月23日火曜日
権利
土地の個人所有(という概念)が紛争をもたらすケースの何と多いことか――と思うのだが、土地って本当に誰かのもなんだろうか。
植民地によくあったパターンは、誰のものでもない土地(=皆のもの/コミュニティのもの)に、ある日突然「所有権」という概念を持ち込み、『誰も所有権を主張していないから僕のもの♪』っていっちゃう論法。「のっとり」に所有権ほど便利なものはなかったわけだ。
誰かのものになるということは、誰かのものではなくなるということ。平等を守るためにあるかのように教わるが、実際およそ権利ってやつは、そもそも格差を前提にしているのかもしれない。
植民地によくあったパターンは、誰のものでもない土地(=皆のもの/コミュニティのもの)に、ある日突然「所有権」という概念を持ち込み、『誰も所有権を主張していないから僕のもの♪』っていっちゃう論法。「のっとり」に所有権ほど便利なものはなかったわけだ。
誰かのものになるということは、誰かのものではなくなるということ。平等を守るためにあるかのように教わるが、実際およそ権利ってやつは、そもそも格差を前提にしているのかもしれない。
2010年2月22日月曜日
2010年2月20日土曜日
2010年2月17日水曜日
2010年2月15日月曜日
2010年2月12日金曜日
2010年2月8日月曜日
歴史ざっくり (2)
紀元前から一気に11世紀まで(笑
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<先史時代>
アフリカ大地溝帯および東アフリカ平原が人類進化の発祥地の地であることは広く認識されている。進化の過程は化石からだけでは全容が見えにくいが、DNAと最近発見された二つの「ミッシングリンク」(エチオピア地溝帯で見つかった440万年前の化石と、ケニア北部Turkana Basinで見つかった560万年前のアゴ骨)から推測するに、ヒトがチンパンジーから枝分かれしたのはおよそ500-600万年前であろう。
ウガンダでは、ケニア、エチオピア、タンザニアに比べると化石の出土が少ないが、それは化石が保存されるのに適した条件があまり揃っていないからであろう。モロト地区で出土した1500万年前の半二足歩行原始人Morotopithecusのことを考えれば、ウガンダにおけるヒトの歴史が他の東アフリカとほぼ同様に長いと考えて差し支えないと思われる。
100万年以上前の石器は東アフリカほぼ全域で出土しており、人類最初期のテクノロジーはこの地域から起こった可能性が高い。紀元前8000年頃、この技術はアフリカの他の地域、ヨーロッパ、アジアにも広まり、石斧のような類似した石器が見られるようになった。ウガンダにおける最古の石器時代の遺跡Kigzei河のNsongeziとビクトリア湖Sango湾は150-50万年前のものである。
東アフリカと南アフリカの人々の起源と分類は、文字の記録がないため学術界でも論争の的となっている。ごく大雑把に言うなら、東アフリカ地域には紀元前1000年頃から二度の人口流入があったらしいとされている。いずれも西アフリカからの人口流入であった。
最初の流入は、今日のDRコンゴの辺りからの流入で、3000年前頃に起こった。この時侵入してきた人々の子孫はBambutiとかBatwaとして知らる狩猟民族で、南アフリカのコイサン族やコンゴ国境地帯の熱帯雨林に今でも暮らすピグミーに似た部族と文化的にも身体的特徴も似通っている。ウガンダ東部Mbale近郊に残る岩窟壁画はコイサン族のそれに酷似しており、かつて彼らがウガンダの大部分を支配していたことをうかがわせる。彼らは11世紀初め頃にも東および南アフリカを支配していた。
二度目の流入は、鉄器の技術の広まりと共に起きた紀元前200年頃のもので、ビクトリア湖後背地にまで達した。この地に鉄器の技術を伝えたのはバンツー語族の先祖であると言われ、紀元500年頃までに赤道以南のアフリカに住むようになったという。この頃の政治・社会のあり様はほとんど分かっていないが、タンザニアで植民地時代直前まで見られたntemiのような、ゆるやかなつながりの集団と酋長制度があったと推測していいと思われる。
ウガンダでは、比較的中央集権的な政体が早くから現れた。伝説に登場する最初のBunyoro-Kitra王国がいつ頃のことなのかは、今も分かっていないが、ウガンダ中央部のMubenteやNtusi地域の遺跡からおそらく1500年よりかなり前だったのではないかと思われる。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ずっと紀元前の話しかと思いきや、最後の2段落でいきなり15世紀くらいまで飛んだ…先史時代から書き起こすなんて、あらためて丁寧だなと思ったが、考えてみればこの辺りというのは『人類発祥の地』と言われているわけで当然の流れなのかな。
ところで、今7ページ前半まできているが、何の気なしに後ろをめくってみたら26ページまで続いてた…こんなに長かったっけ?訳し終わる頃にはもう帰国だったりして。
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<先史時代>
アフリカ大地溝帯および東アフリカ平原が人類進化の発祥地の地であることは広く認識されている。進化の過程は化石からだけでは全容が見えにくいが、DNAと最近発見された二つの「ミッシングリンク」(エチオピア地溝帯で見つかった440万年前の化石と、ケニア北部Turkana Basinで見つかった560万年前のアゴ骨)から推測するに、ヒトがチンパンジーから枝分かれしたのはおよそ500-600万年前であろう。
ウガンダでは、ケニア、エチオピア、タンザニアに比べると化石の出土が少ないが、それは化石が保存されるのに適した条件があまり揃っていないからであろう。モロト地区で出土した1500万年前の半二足歩行原始人Morotopithecusのことを考えれば、ウガンダにおけるヒトの歴史が他の東アフリカとほぼ同様に長いと考えて差し支えないと思われる。
100万年以上前の石器は東アフリカほぼ全域で出土しており、人類最初期のテクノロジーはこの地域から起こった可能性が高い。紀元前8000年頃、この技術はアフリカの他の地域、ヨーロッパ、アジアにも広まり、石斧のような類似した石器が見られるようになった。ウガンダにおける最古の石器時代の遺跡Kigzei河のNsongeziとビクトリア湖Sango湾は150-50万年前のものである。
東アフリカと南アフリカの人々の起源と分類は、文字の記録がないため学術界でも論争の的となっている。ごく大雑把に言うなら、東アフリカ地域には紀元前1000年頃から二度の人口流入があったらしいとされている。いずれも西アフリカからの人口流入であった。
最初の流入は、今日のDRコンゴの辺りからの流入で、3000年前頃に起こった。この時侵入してきた人々の子孫はBambutiとかBatwaとして知らる狩猟民族で、南アフリカのコイサン族やコンゴ国境地帯の熱帯雨林に今でも暮らすピグミーに似た部族と文化的にも身体的特徴も似通っている。ウガンダ東部Mbale近郊に残る岩窟壁画はコイサン族のそれに酷似しており、かつて彼らがウガンダの大部分を支配していたことをうかがわせる。彼らは11世紀初め頃にも東および南アフリカを支配していた。
二度目の流入は、鉄器の技術の広まりと共に起きた紀元前200年頃のもので、ビクトリア湖後背地にまで達した。この地に鉄器の技術を伝えたのはバンツー語族の先祖であると言われ、紀元500年頃までに赤道以南のアフリカに住むようになったという。この頃の政治・社会のあり様はほとんど分かっていないが、タンザニアで植民地時代直前まで見られたntemiのような、ゆるやかなつながりの集団と酋長制度があったと推測していいと思われる。
ウガンダでは、比較的中央集権的な政体が早くから現れた。伝説に登場する最初のBunyoro-Kitra王国がいつ頃のことなのかは、今も分かっていないが、ウガンダ中央部のMubenteやNtusi地域の遺跡からおそらく1500年よりかなり前だったのではないかと思われる。
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ずっと紀元前の話しかと思いきや、最後の2段落でいきなり15世紀くらいまで飛んだ…先史時代から書き起こすなんて、あらためて丁寧だなと思ったが、考えてみればこの辺りというのは『人類発祥の地』と言われているわけで当然の流れなのかな。
ところで、今7ページ前半まできているが、何の気なしに後ろをめくってみたら26ページまで続いてた…こんなに長かったっけ?訳し終わる頃にはもう帰国だったりして。
2010年2月7日日曜日
歴史ざっくり (1)
アマゾンで検索をかけて唯一出てきた観光ガイドブックより。自習の一環の私訳なので、勝手にまとめたり端折ったりしています。あしからず。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
<序>
アフリカは『歴史なき大陸』と言われることがある。歴史を定義通り書かれた記録に基づくものと理解すれば、これは正しい。中央アフリカ地域は19世紀半ばになるまで記録に登場しない。ただし当然のことながら、書類がないからと言って、石器時代からただ空白があり、いきなり植民地時代になったわけではない。
書かれた記録がない中、前植民地時代のアフリカ史の研究方法は主に二つある。考古学的方法か、もしくは口承の伝説等に拠る方法である。もっとも、これらの手法に頼ると、どうしても矛盾や解釈の違いが出てきてしまう。
その点、12世紀から現在に至るまでのウガンダの歴史は、例外といっていいだろう。口承の言い伝えと考古学的な証拠が符合している例がいくつもあるのだ。
<用語について>
バンツー語系の言語では、一つの語に様々な接頭辞が付く。最もよく使われるものだと、「mu-:個人」「ba-:集団の人」「bu-:その人(たち)の土地」があげられる。たとえば、「Muganda」というのは「Baganda」という集団に属する人のことであり、「Buganda」に住んでいる。Baganda族の言語はLugandaであり、その宗教や習慣はKigandaである。同様に、Bunyoroに住むBanyoro族はRunyoro語を話し、Kinyoroの習慣を守っている。
ま、どの接頭辞を使うかは、専門書でも結構曖昧である。たとえば、Gandaを形容詞的に使いGanda kabaka(King of Buganda)とする本もあれば、Muganda kabakaないしBaganda kabakaと表記する本もある。そもそも、Baganda以外の王国はこのルール通りに呼ばれていないことの方が一般的だったりするのだ。例えば、Ankoleの人々は通常Banyankoleと呼ばれるし(Bunyankoleという呼称は聞いたことがない)、Toroの人々はしばしばBatoroと呼ばれButoroではない。接頭辞でいつも迷うのが「-ganda」「 -nyoro」「 -soga」で、「Ankole」と「Toro」は接頭辞なしにしている。
Ugandaという国名は、もちろんBugandaからきている。イギリスの植民地政府がこの名前を選んだのは、おそらく彼らが最初に接触した現地ガイドがKiSwahili語だったからだろう。KiSwahili語では接頭辞「u-」がLuganda語の「bu-」と同義であるため、Ganda王国のことをUgadanaと発音したことが容易に想像できる。
こうして本来は「ブガンダ」と呼ばれるべき名前が「ウガンダ」になってしまったことを、バガンダ族の歴史家たちは憤慨するが、他方歴史を整理する外の人間の立場からすれば、現在の国家名ウガンダと、王国名ブガンダが容易に区別でき助かるというものである。
ウガンダの各民族集団の王様は、バガンダ族ではkabaka、Banyoro族ではomakuma、Ankole族ではomugabeと呼ばれている。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
思ったより訳すのが面倒くさい。途中で挫折する可能性大だ。それにしても、観光ブックの記述の割には出だし、なかなかまともなことを書いていると思った。アメリカの歴史は1492年に始まったわけではありませんよ、というのと同じ理屈よね。
接頭辞の話も面白い。実は、実際には独立以降の部分を先に読んでいるのだが、何度も出てくる「Baganda」になんだこれ?とちょうど思ってたところだった。
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<序>
アフリカは『歴史なき大陸』と言われることがある。歴史を定義通り書かれた記録に基づくものと理解すれば、これは正しい。中央アフリカ地域は19世紀半ばになるまで記録に登場しない。ただし当然のことながら、書類がないからと言って、石器時代からただ空白があり、いきなり植民地時代になったわけではない。
書かれた記録がない中、前植民地時代のアフリカ史の研究方法は主に二つある。考古学的方法か、もしくは口承の伝説等に拠る方法である。もっとも、これらの手法に頼ると、どうしても矛盾や解釈の違いが出てきてしまう。
その点、12世紀から現在に至るまでのウガンダの歴史は、例外といっていいだろう。口承の言い伝えと考古学的な証拠が符合している例がいくつもあるのだ。
<用語について>
バンツー語系の言語では、一つの語に様々な接頭辞が付く。最もよく使われるものだと、「mu-:個人」「ba-:集団の人」「bu-:その人(たち)の土地」があげられる。たとえば、「Muganda」というのは「Baganda」という集団に属する人のことであり、「Buganda」に住んでいる。Baganda族の言語はLugandaであり、その宗教や習慣はKigandaである。同様に、Bunyoroに住むBanyoro族はRunyoro語を話し、Kinyoroの習慣を守っている。
ま、どの接頭辞を使うかは、専門書でも結構曖昧である。たとえば、Gandaを形容詞的に使いGanda kabaka(King of Buganda)とする本もあれば、Muganda kabakaないしBaganda kabakaと表記する本もある。そもそも、Baganda以外の王国はこのルール通りに呼ばれていないことの方が一般的だったりするのだ。例えば、Ankoleの人々は通常Banyankoleと呼ばれるし(Bunyankoleという呼称は聞いたことがない)、Toroの人々はしばしばBatoroと呼ばれButoroではない。接頭辞でいつも迷うのが「-ganda」「 -nyoro」「 -soga」で、「Ankole」と「Toro」は接頭辞なしにしている。
Ugandaという国名は、もちろんBugandaからきている。イギリスの植民地政府がこの名前を選んだのは、おそらく彼らが最初に接触した現地ガイドがKiSwahili語だったからだろう。KiSwahili語では接頭辞「u-」がLuganda語の「bu-」と同義であるため、Ganda王国のことをUgadanaと発音したことが容易に想像できる。
こうして本来は「ブガンダ」と呼ばれるべき名前が「ウガンダ」になってしまったことを、バガンダ族の歴史家たちは憤慨するが、他方歴史を整理する外の人間の立場からすれば、現在の国家名ウガンダと、王国名ブガンダが容易に区別でき助かるというものである。
ウガンダの各民族集団の王様は、バガンダ族ではkabaka、Banyoro族ではomakuma、Ankole族ではomugabeと呼ばれている。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
思ったより訳すのが面倒くさい。途中で挫折する可能性大だ。それにしても、観光ブックの記述の割には出だし、なかなかまともなことを書いていると思った。アメリカの歴史は1492年に始まったわけではありませんよ、というのと同じ理屈よね。
接頭辞の話も面白い。実は、実際には独立以降の部分を先に読んでいるのだが、何度も出てくる「Baganda」になんだこれ?とちょうど思ってたところだった。
2010年2月6日土曜日
2010年2月5日金曜日
2010年2月1日月曜日
第6集 アジアの独立
ガンジー、孫文、ホーチミン、毛沢東――アジアには他にもたくさんの『独立の英雄』がいるが、おもに取り上げられているのはざっとこんなとこ。
言葉の説得力という意味で圧倒的なのは何と言ってもガンジーだな、と再認識。試しにネットで語録を調べてみたら、びっくりするくらいたくさん出てくる。まだ出典を確認できていないのだが、本編の最初の方に出てくるこの言葉に思わずうなずいてしまった。(訳は番組のママ)
私たちは外国の言葉ではなく私たち自身の言葉で、これから歴史を語らなければいけません。
いわゆる開発途上国で、歴史の研究がまともにされていることなどほとんどないのではないかと思われる。考古学的な方はよくわからないが、それ以降に関して言えば、まずもって、史料が保存されている確率が低いのじゃなかろうかと思うし、実学に比べ歴史学というのは何かと後回しにされるなか、実学でさえ「こんなんでいいのか?」ってな研究が(…それを「研究」と呼ぶなら、の話だけど)多いことを考えれば、歴史学にもほとんど期待できんな、と想像してみるわけで。
確かに、歴史研究って、直接的に国の発展に寄与するとか、研究する側からすればスグに就職口が見つかるとか、そういったメリットとはおよそ縁がない。けれど、かつて歴史学の発展が国民国家の成立と軌を一にしていたことからも分かるように、その国の国民が自分の国の生い立ちを知ることには一定の意味があるし、均一的な支配/統治という点からのメリットもあるはずだ。
個人レベルでいえば、たとえば同じ歴史的事実が、それを見る人の立場が違うと異なって見えるということ、それを知るだけでも歴史を学ぶ意義は大いにあるのではないかと思う。(それが分かるように教えなければ意味がないけれど)こうしたものの見方は為政者や権威に守られた人々にとって脅威でこそあれプラスにはならないし、なかなか奨励されないのは理解できることだが、直線的なものの見方は必ずconflictを生み出す。多面的・多方向からものを考えられる人材が育ってこそはじめて、いわゆるgood governanceなんかも期待できるんじゃあないだろうか。
ガンジーの言葉は、当時のインドがイギリスの植民地として長く支配下に置かれており、イギリス史の一部として語られる存在になっていたことを憂えるものであり、必ずしも歴史学の研究を促すものではないけれど。ただ、この時代に独立を果たした国々が、はたして自らの歴史を持ち得たかと言うと、独立から現在に至るまではまだ記憶の届く範囲かもしれないが、それ以前のこととなると体系的に整理できた例というのはほとんどないのではないかと思う。国の発展というのは、こういうところにまで及んでこそ揺るぎないものになっていくのだと思うのだが。
言葉の説得力という意味で圧倒的なのは何と言ってもガンジーだな、と再認識。試しにネットで語録を調べてみたら、びっくりするくらいたくさん出てくる。まだ出典を確認できていないのだが、本編の最初の方に出てくるこの言葉に思わずうなずいてしまった。(訳は番組のママ)
私たちは外国の言葉ではなく私たち自身の言葉で、これから歴史を語らなければいけません。
いわゆる開発途上国で、歴史の研究がまともにされていることなどほとんどないのではないかと思われる。考古学的な方はよくわからないが、それ以降に関して言えば、まずもって、史料が保存されている確率が低いのじゃなかろうかと思うし、実学に比べ歴史学というのは何かと後回しにされるなか、実学でさえ「こんなんでいいのか?」ってな研究が(…それを「研究」と呼ぶなら、の話だけど)多いことを考えれば、歴史学にもほとんど期待できんな、と想像してみるわけで。
確かに、歴史研究って、直接的に国の発展に寄与するとか、研究する側からすればスグに就職口が見つかるとか、そういったメリットとはおよそ縁がない。けれど、かつて歴史学の発展が国民国家の成立と軌を一にしていたことからも分かるように、その国の国民が自分の国の生い立ちを知ることには一定の意味があるし、均一的な支配/統治という点からのメリットもあるはずだ。
個人レベルでいえば、たとえば同じ歴史的事実が、それを見る人の立場が違うと異なって見えるということ、それを知るだけでも歴史を学ぶ意義は大いにあるのではないかと思う。(それが分かるように教えなければ意味がないけれど)こうしたものの見方は為政者や権威に守られた人々にとって脅威でこそあれプラスにはならないし、なかなか奨励されないのは理解できることだが、直線的なものの見方は必ずconflictを生み出す。多面的・多方向からものを考えられる人材が育ってこそはじめて、いわゆるgood governanceなんかも期待できるんじゃあないだろうか。
ガンジーの言葉は、当時のインドがイギリスの植民地として長く支配下に置かれており、イギリス史の一部として語られる存在になっていたことを憂えるものであり、必ずしも歴史学の研究を促すものではないけれど。ただ、この時代に独立を果たした国々が、はたして自らの歴史を持ち得たかと言うと、独立から現在に至るまではまだ記憶の届く範囲かもしれないが、それ以前のこととなると体系的に整理できた例というのはほとんどないのではないかと思う。国の発展というのは、こういうところにまで及んでこそ揺るぎないものになっていくのだと思うのだが。
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