2010年8月24日火曜日

piece

「たまご6個買ってきて」と頼んだら「マム、お金が足りなくて5個しか買えませんでした」となむ。えっ?たまごってそんな高かったっけ??と思いながら受け取った袋がやたらとデカイ…いやな予感(笑

――中には1つ6個入りのパックが5個! そんな、うちの運転手アイバン君。「6 piecesだよ、packじゃないよ」って言ったでしょ~?!しゃあない、2パックあげるわ。

仕事中はマイカーを使わないので、昼間、なるべくお使いを頼んだり、たまに人の用事を請け負ってもらったりしている。自宅と職場の往復くらいなら自分でも運転できるが、外で飲む頻度が高い私には、やはり運転手が必要なのよね。

2010年8月23日月曜日

Umqombothi (African Beer)

マイカーでたまたまこの曲が流れたら、ドライバーのアイバン君が「あーーこの曲♪」と食いつく。映画『ホテル・ルワンダ』で使われていた(たぶん唯一の)明るい挿入歌だ。

元々映画で使われる前に流行っていたのかな?と思って調べてみたが、分かったのはこの曲を歌っている人が『イヴォンヌ・チャカ・チャカ』という名前だってことだけ。でも、なんか楽しげな名前だ(笑

「Umqombothi」って何語だろう?アイバン君が分かるってことはスワヒリ語??と思って聞いてみたら、ズールー語なんだそう。何回聞いても「ウ○コ持ち」と聞こえてしょうがない(爆

2010年8月19日木曜日

第1集 20世紀の幕開け

番組内のナレーションによれば、このシリーズ放映当時(1995年)は『動く映像』が発明されてちょうど100年目にあたったのだそうだ。その都合上からなのか、あるいは歴史上、通常20世紀という「時代」は第一次世界大戦から始まると見るのがフツーであることを勘案してか――恐らくはその両方だと思う――番組は19世紀末の話から始まり、第一次世界大戦の導火線となったサラエボ事件までを描く。

この回は、まだ19世紀の雰囲気を残した比較的穏やかな10年間ということ、加えてシリーズ初回ということが重なって、どちらかというと『小ネタ』をつなぎ合わせたような構成になっている。人類史上初の上映用映像、とか、『動く』トルストイ、ヴィクトリア女王、ロマノフ王家、とか。孫文やガンジーの話を意図的に出して後に続く回の前振りをしたかと思えば、ゴーリキーのコメントや植民地映像の使われ方を紹介して「映像が果たした役割」に注目したり。

他の各回は歴史的イベントを中心に据えて作られているので、この回がやたらとぶつ切りな印象であることは否めないが、「動く映像」が発明された頃の人々の戸惑いや好奇心はひょっとしたらこんな感じだったのかもしれないとも思ってみる。

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この回の注目映像をひとつ挙げるとすれば、シリーズを通じてほとんど登場しないアフリカの映像が、ほんの数十秒だが出てくる。『コンゴあるいはイギリス領』で、大勢の労働者が――もう「奴隷」ではないはずだが、“奴隷”と聞いて一般に想像するイメージとそう違わない働かせられ方で――鉄道の建設に従事させられている。

今いる国のことだけを考えてみても、主要なインフラ(特にダム、発電所、鉄道)はいまだに植民地時代の遺産に頼っているし、「植民地」支配が一概にネガティブなことばかりではなかったという主張は聞かれて久しい。が、こんな扱いを受けたという記憶は、きっと生き続けるのではないかと思う。

今日「援助は形を変えた植民地侵略だ」という批判があったり、実際「これって“植民”じゃないの?!」と言いたくなるような過激な援助をする国もあったりする中、同時に、そのようなリスクは覚悟の上で、援助する側をうまく『利用』しようとする被援助国側のしたたかさが見られるのも事実だ。こうした「したたかさ」の源泉のひとつに、奴隷同然の扱いを受けたあの頃の記憶もあるのではないかと思う。

アクセス解析によると、最近、「映像の世紀」「映像の世紀 公民権運動」というキーワードで検索し、このブログに来てくれた人がいたようだ。期待に応えられる内容ではなかったと思うが、せっかくだから久しぶりに映像の世紀ネタを書いてみた…んだけど、やっぱり書こうと思って書くと、なかなか言葉が出て来ませんね。

2010年8月18日水曜日

ラフティング


ナイルでラフティングだなんて、単純に面白そうなんだけど。
この激流、日本じゃ営業許可おりないだろうなあ(笑




気持ち良さそうに見えるかもしれないが、住血吸虫がいるので
ホントは水しぶき一滴でも触れない方がいい水。

というわけで、私は未体験。




でも目の前で見てみると、やってみたくなる気持ちは十二分に理解できた。

2010年8月16日月曜日

JINJAにて






夕闇のナイル





逆光のわたし。元気です。



SA



幹線道路沿いに屋台が並ぶ、いわばサービス・エリア。

ただし、車を降りる必要はない。





青い売り子たちが猛然と駆け寄り、

われ先に窓から手を突っ込んでくる。





車の中から見ると、こんな感じ。

肉(牛、鶏、レバー)の串焼きが人気です。

2010年8月13日金曜日

スタック



後輪の跳ね上げる泥を盛大に浴びながら、
まあ、押せば何とかなるんだけど。





1泊の出張で3回押した。




2010年8月9日月曜日

北回廊


ケニアのモンバサから来た線路が、ここでナイル河を超えカンパラに向かう。
昔は旅客サービスもあったが、今は貨物列車のみが1日二便走る。





この辺りは白ナイルの源流、地中海まで6000キロを超える旅の出発点。
線路も長いが、河はもっと長い。




2010年8月8日日曜日

EAC

East African Community――東アフリカ共同体。EUが機能するようになるはるか前、東アフリカに地域共同体があった。

域内は関税フリー、域外に対しては共通の関税をかける。共通の通貨、共通の郵便制度、鉄道・フェリー・航空会社も域内をカバーした。1977年、諸々の不協和音を抱えて瓦解するまで、実に半世紀上も機能していた。ウガンダでも、ある一定以上の世代の人に聞くと「あの頃はよかった」的なコメントだ。

――まあ、そりゃそうだろう。鉄道もフェリーも、今はほぼ機能していない。航空会社はケニアが持ってっちゃった。そこそこ広くて海に面しているケニア、タンザニアはともかくとして、世界地図を開いたら小さ過ぎてよく見えない内陸の三か国は、大きなメリットを失うことになった。(――それはとりもなおさず、ケニア、タンザニアにとってこの共同体にどれほどのメリットを見出せるのか、という話でもある。)

ケニア、ウガンダ、タンザニア、ルワンダ、ブルンジ。今あるEACは2001年に発足しており、そこだけ見ると、てっきりEUのマネでもしたかのような印象を抱いてしまうが、実は20世紀初頭から徐々に形成され1948年には一応の形になった『初代』EAC(1948年当時は『East African High Commision』)があったのだ。

1948年ってことは、まだ独立前。ということは、中心の三つ(ケニア、ウガンダ、タンザニア)を一緒にするという発想は、イギリス発ということなのだろうか。当時、ケニアは直轄植民地、ウガンダは保護領、タンザニアは委任統治領だった。色んな名前が付いているが、要はイギリスの「植民地」。分割統治がお家芸のはずだが、なぜか東アフリカに限ってはまとめたくなったらしい。何故だろう?

歴史では習わなかったし、大学でも大学院でも、EACの記述に触れたこと、あったかなあ?少なくともまとまった研究を目にしたことはなかった。