2011年3月8日火曜日

懐古・再

カンニング、愉快犯じゃあなかったらしい。愉快犯だったらよかったのに。追いつめられたあのイヤな感じが、久しぶりに思い出された。

��以下、完全に個人的懐古ゆえ面白くありません。あしからず)

人生には成功体験も失敗体験もついて回るし、大人になれば、他人が他人の成功や失敗についていちいちコメントすることもなくなってくると思う――のだが、自分自身の経験では、大学受験だけは例外だった。いい大人たちが好き勝手に、「どうしてあなたは落ちたのか」とか「どうやれば乗り越えられるか」とか、もっと失礼なのだと「あなたには何が欠けているか」とか。聞いてもないのに言ってくる。宗教の勧誘かっての。
“大学受験”というのが多くの人にとって共通体験だからなのかもしれないが、そんなこと言ってくる人に限って自分より勉強をしている(きた)人にはとても見えなかったりしてね。なのに、落ちた分際の自分が口を開けば負け犬の遠吠えになってしまうから、と、侮辱的なコメントに反論もできず黙って受け流すしかなく、随分と屈辱的な思いをしたものだ。恐らく好き勝手言ってる連中にとっては、反論しづらい相手に言いたい放題言って、相手をコントロールするいい機会なのだろう――それはもしかしたら無意識かもしれないけれど。明らかにその手だ、と思われた人たちの顔は今でも嫌悪を持って思い出せる。
思春期のムズカシイお年頃にとって「1年間」というのはやたらと長かった。「勝手なこと言う連中を黙らせる。そのためには受かるしかない」と、置かれた状況がモチベーションになることもあったが、むしろほとんどの時間「もしまた落ちたら、一生この侮辱的なコメントを屈辱的な思いで聞かなければならない…」と怯えていた。思春期は大袈裟だから。びくびくしながら過ごす1年は、どうしようもなく長かった。
今回のカンニングの主に対しここで何らかコメントを書けば、私も「好き勝手言う大人」のひとりになってしまうので何も書かないし、だいたいどんな心境だったかなんて分かりゃしないから想像もしないけれど、できれば今からでも「実はやっぱり愉快犯でした」てな話にならないだろうかね。重すぎるよ。

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